Ku Cafe #008 Hinata

Apr. 10th p.m. 22:30 @ Cartems on Pender st.
コーヒーカップの気球が行き着く先は、ほんとうの自分に出逢える“空 Ku:”のせかい。
今日もまた、バンクーバーのどこかのKu:Cafeで、誰かが小さな旅に出ます。

 イワキくんは、山を越えてやって来る。スクアーミッシュの 崖のふもとに住む彼とは去年の夏、ペムバートンの農場で開 かれた友人の結婚式で知り合った。雄大な山々を背景に、額 に汗を滲ませながら新郎新婦を見守る彼を、山みたいな人だ なあ、と思った。若い頃は、そこそこ人気のある格闘家だったらしい。(「プロレスラーとちゃうで」、と彼は言うが、違い がよくわからない)。私はというと、ダウンタウンにあるローカル誌の編集部で毎晩遅くまで働いていて、睡眠時間もままならない。これじゃあ日本にいる時と変わらない、と、時々、 閉ざされたような気分になる。イワキくんが電話をくれるのは、たいていそんな夜だ。「桜、見に行かん?」。疲れ切ってアパートへ向かう夜道では、あけすけな関西弁が染みる。「ダウンタウンの桜はもう終わっちゃったよ」と言うと、「大丈夫や!」と自信たっぷりだ。うん。じゃあ、金曜日の 夜に。
 仕事あがりに車を飛ばしてやって来るイワキくんのために、Cartemsでドーナツを買った。お気に入りのアールグレイ、それから4月のフレイバー。キレイにおめかしされたドーナツたちが、赤い箱に収まってい く。通りに出ると、クラクションが鳴った。3週間ぶりに会うのに開口一番、「ハラ減った〜!なんかエエにおいする、何買ったん?」とくる。「ドーナツ。桜味の」「お〜、やるなあ!」。中学生のように喜ぶイワキくんの黒いワゴンは、ダウンタウンを通り過ぎ、キツラノに向かっている。「昔、俺この辺に住んどってんけど、エラいかっこええ桜の樹がおってん。まだ元気やったらええんやけど」と、古い友人の話でもしているかのようだ。彼のこういうところを、いいなあ、と思う。それは、山や樹を見て、いいなあ、という感じに似ている。

ku04

原田章生: 愛知在住、絵描き/音楽家。 http://homepage3.nifty.com/harada-akio/

 人影のない 22時過ぎのキツラノビーチに車を停め、ドーナツの箱を抱えながら並んで歩く。桜は満開だった。ぼんぼりのように揺れる八重桜。可憐なソメイヨシノ。夜を背に咲く花の群れは美しさを超えて、むき出しの命の妖艶さを晒している。足を止め、眠らない花たちを仰ぎ見た。「樹にも、” 樹魂 “ってあってな、それぞれの樹の声って、ちゃんと聞こえるねんで」。イワキくんが言った。「どうやったら聞こえるの」と聞くと「人の呼吸を、樹の呼吸に合わせる。難しいことやなくて、ただ、心穏やかに深呼吸でもしたらええんちゃうかな」。深呼吸どころか、私はここのところ、ちゃんと息をしているだろうか? 音もなく花びらが風と踊る。宇宙の手で創られた完璧なダンス。「こいつや、俺の一番好きな奴」。顔を上げると、他とは確かに風貌が違う一本の樹がそこに”いた“。ごつごつとした濃い色の樹肌に、曲がりくねった幹。ぐっと海の方へと突き出した枝に、ひしめき咲く花。じっとこの場所で根を張って、何十年も海を見つめている老人のようだ。「元気やったかあ」。イワキくんは旧友の肩を叩くみたいに、本当に懐かしそうに幹に触れている。邪魔をしないよう見守っていたら、「そや、ドーナツ食べよ」と、いつもの笑顔で振り返った。並んでその樹の根元に座り、箱を開けると、甘い匂いが夜と混ざってさらに甘い。「ひなたの好きなん、先に選び」と言うので、アールグレイを選ぶ。「ほな、俺はこのごっついの」。イワキくんはメープルウォールナッツを手に取ると、いただきまあす、と子供みたいに大きな声で言った。深呼吸の代わりに、私達は静かにドーナツを食べた。満開の桜の樹の下で、ドーナツを一口かじるたび、閉ざされていた穴が崩れ堕ちていく。本当は、閉ざされてなんていないのに。つながってひとつなのに。でもその最中にいると、わからなくなってしまう。わからないまま、時々泣きたくなる。「ドーナツの穴って、なんであるんだと思う?」。夜を見つめたまま私は聞いた。「ん?そやなあ、向こう側が見渡せるようにとちゃうか」。二つ目を頬張りながらイワキくんは答えた。穴の向こうには、何が見えるのだろう。ふわり、とぬるい風が吹いて、花びらがひらひらと舞った。一枚一枚、美しいリズムで回転しながら、地上までの軌道を描く。かじりかけのドーナツの穴に、樹魂のかけらたちが流れ込んでくる。あ、今、桜の声がした。そう思った時、三個目のドーナツに伸ばそうとしていたイワキくんの手が、髪に触れた。「花びら付いとる」。
 そう言う彼の髪にも花びらは付いていたのだが、私はなぜか急いでドーナツをたいらげ、「これは、半分こしよう。4月の新作だから」。桜の花びらを散らしたピンク色のドーナツを半分にして差し出した。ドーナツの穴と、私の中の閉ざされた空白。それはきっと、満ちていく甘さを知るために、あるのだ。「お、これ美味い」。髪に花びらをつけたまんま、イワキくんがつぶやいた。


佐々木 愛

佐々木愛: バンクーバー在住、ことばのお仕事師。http://www.lovelyoreo.com/

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