ツナママ日記
 
 日本人が初めてカナダに上陸したのは、長崎県出身の永野萬蔵がニューウエストミンスターに到着した1877年だといわれている。日本からの移民が本格化したのは1880年代。安くて優秀な労働者として歓迎され、Powell St.を中心に日本人コミュニティを形成していく。しかし、移民の急増は白人労働者たちの失業を招き、次第に反日感情が芽生えていった。そんな中でも、日系人の野球チームとして結成された「朝日」(写真右上)が活躍するなど、カナダ人と同等の権利を持つことを夢見てたくましく生きてきた日系人だったが、第二次世界大戦が勃発すると、多くの人々が強制収容所での生活を余儀なくされた。戦後約40年経過してようやく長年の補償要求運動が実を結び、カナダ政府から日系人に対して正式に謝罪が行われた。このように、波乱の道のりをくぐり抜けてきた日系人。「朝日」は2003年にカナダ野球の殿堂入りを果たし、パウエル街では毎年8月に「パウエル祭」が行われるなど、彼らはカナダ社会に溶け込みつつも、しっかりと日本文化を継承し続けているのだ。
(左上を除く同ページ写真提供)カナダ日系博物館
年表
 
1877
長崎県の漁師の息子だった当時19歳の永野萬蔵が、日本人として初めてBC州にあるニューウエストミンスターに到着。鮭漁で財をなし、“塩鮭王”として名を馳せる。
1887
日本とカナダを往復していた和歌山県出身の漁師、工野儀兵衛がスティーブストン村に落ち着く。それから第二次世界大戦まで、スティーブストンはカナダで2番目に大きい日系カナダ人の居住区となる。
1891

横浜出身の石川勝蔵が、Powell St.に日本人向けの旅館「JAPAN ROOM」を開き、その場所を中心に日系人のコミュニティが形成されていく。

1907

日本人移民の増加がアジア人排斥運動に拍車をかけ、5千人もの白人労働者がパウエル街を襲撃する。日系人の組織的抵抗に白人たちは撤退を余儀なくされたが、この“バンクーバー暴動”を機に、日本からの移民が年間400人に制限された。

1914

日系二世の少年野球チームとして「朝日野球団」が結成される。シニアリーグで度々優勝し、日系人以外にも大勢のファンを持つようになる。日本から巨人軍が遠征した際にも、熱戦を繰り広げた。

1920
第一次世界大戦の激戦地“ヴィミーの屋根の戦い”から3年後、日系カナダ人戦没者記念碑がスタンレーパークに建てられる。
1931
第一次世界大戦の退役軍人は参政権を与えられ、日系人の中で唯一選挙に投票できることになる。
1941

12月7日、日本軍による真珠湾攻撃によりカナダが日本に宣戦布告。カナダ警察によって多数の日系人が危険人物として逮捕され、漁船の没収、日本語学校の閉鎖、日本語新聞の発行停止などが行われた。

1942
日本人の血が流れる者はすべて“敵国人”として強制移動が命じられる。BC州沿岸から100マイル以内の土地への立ち入りが禁止され、労働キャンプや収容所などに送られた。

1988

4月、500人に及ぶ日系人が補償問題を訴え、オタワの国会議事堂前でデモ行進を行う。9月、カナダ政府は日系人に対する不当行為を認め、公式に謝罪した。

     
1921年 バンクーバー朝日野球団
Sanmiya Family Collection

1936年 バンクーバー創立50年祭パレードに
参加した日系人たち Kariatsumari Family Collection

1942年 日系人が収容されたヘイスティングズ・パークの男性寮の様子Alec Eastwood Collection
1988年 カナダの首相と全カナダ日系人協会が補償の調印を交わした Roy Miki Collection
 


 

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